2011年11月11日金曜日
ラブ・ミー・テンダー / Love Me Tender
ラブ・ミー・テンダー / Love Me Tender
エルヴィス・プレスリーの登場はアメリカにとって事件でした。紛れもなくアメリカ社会を変え、さらに世界に影響を与えたミュージシャンであり、音楽ができることを実証した最初のミュージシャンです。しかし彼に特別な意図があったわけではなく、偶然のことですが、それが事件に発展したのはアメリカ社会を変えたからです。
人種差別の厳しいアメリカ南部、ワーカークラスでも最下層の生活保護を受けなければならない家庭で育った白人の若者が、どのようにして「キング・オブ・ロックンロール」に辿りついたか?あるいはなぜそうなったのか?
ラスベガスにあるヒルトン・インターナショナル・ホテルでのパフォーマンスを記録した映画「エルヴィス・オン・ステージ」に、単なる偶然ではなかった答えを見ることができます。
<ラブ・ミー・テンダー>を歌う場面があります。
エルヴィスは女性ファンにキスのサービスを始めます。ついにはスタッフの制止をふりきってホールに下りてしまい、混乱のなかをラウンドします。
自分はこのシーンが嫌いでした。多くの人が同じように「キモい」と思ってしまう場面かも知れません。でも何度も見返す内に、エルヴィスの気持ちがようやくわかったような気がするのです。
1970年「エルヴィス・オン・ステージ」の舞台となった、ヒルトン・インターナショナル・ホテルは、古いダウンタウンから離れた場所に建てられた当時話題の大型ホテルです。
いまでこそヒルトン・インターナショナルを凌駕する人気ホテルが続々と作られ、中心地が変わってしまったため、ダウンタウンと現在の中心地の狭間にあり、いまではいい場所にあるとはいえません。
ラスベガスもいまではすっかりテーマパーク化して、客層も変わりましたが、1970年はドレッシーな大人の遊び場だったラスベガスから、家族で楽しむラスベガスに変わろうとする始まりだったのです。
「すべてはエルヴィスから始まった」のフレーズは、ここでも適用されたようです。
当時、エルヴィス同様、ラスベガスでソールドアウトにできるのは、スーザン・ストラスバーグ、フランク・シナトラだけだと言われていました。しかし彼らのライブとは客層が全然違います。
「エルヴィス・オン・ステージ」の客席には、ニューヨーカーのような人は少なく、貯金を下ろして精一杯のお洒落をして、遠くからやってきた「田舎者」らしい人が多く見られます。もう二度これそうにもない人たち。
キモいと思っていたエルヴィスのキスは、その人たちの”やりくりして過ごすつつましい日常”に向けられた「頑張れよ」のキスだったと思うのです。
その暮らしが、どんなものなのか物心つく以前に五感を通して身体で知っているエルヴィスならでは共感です。
ファンサービスという表現で片付けられない人間への思い、いたわりが、派手な衣装と笑顔と女たらしなポーズに隠されたまま、何食わぬ顔で淡々と繰り広げられます。
来たこともない見たこともない自分の日常にはないゴージャスな場。
その緊張を汗と熱唱で興奮に変えることで、粉々に打ち砕き、ありのままの自分になれるように場を作り、それでも恥かしい女性の気持ちを自分が全部引き受けて、君はボクにキスしてくれないのと言わんばかりに手をさしのべる。
男ですよね、男。幸せにしてもらいたいとは願わない。ただ幸せにしたいだけ。
エルヴィスが愛された理由です。自分のことなら引っ込み思案になったけれど、人のためなら、誤解を恐れず、ただの一度も言い訳も説明もしなかったエルヴィス。
「みんなの顔を見せてくれないか」と言って客席に明かりを要求したエルヴィス。
ステージの姿をカメラに納めるのを拒否しなかった>エルヴィス。
こんなミュージシャンを見たことがありますか?
寡黙なままに行われた偉業。That's The Way It Is これこそが、「エルヴィス・プレスリーのロックンロール」なやり方だったのです。
印税生活をしていたエルヴィスにとって、RIAAの公式発表は、お金をどれだけ稼いだかということと同義語ですが、一方では「魂の救済の数」なのです。年月が過ぎて、利息を生んでいるようです。
クリスマスが近づくインディアン・サマーのような日に窓をあけて一度、エルヴィス・プレスリーを聴いてみませんか?
2011年11月4日金曜日
LET IT BE ME/ レット・イット・ビー・ミ一
1970年2月19日、2度目のラスベガス・インターナショナル・ホテルでのライブアルバム「ON STAGE-FEBRUARY. 1970」に収録されて、初登場した。アルバムは、リリースされると大ヒット、瞬く間にミリオン・セラーとなり71年2 月23 日にはRIAA/ゴールド・レコードに認定された。
<レット・イット・ビー・ミ一>のオリジナルはシャンソンで、フランス音楽界の大スター、ジルベール・ベコーが1955年に作曲、自らレコーデイングしている。
作詞はピエール・ドラノエだが、1957年にはアメリカで英語版の歌詞をマン・カーテイスが作り、ジル・コーレイの歌でテレビ・ドラマに使用。ビルボードHOT100で57位にランキングされるヒットになった。
その後1960年にエバリー・ブラザーズが歌ってHOT100で7位を記録する大ヒットとなった。その後も有名ミュージシャンにカバーされたが、82年にはウイリー・ネルソンでリバイバルヒット。このヒットによって、<レット・イット・ビー・ミ一>というとエバリー・ブラザーズ、ウイリー・ネルソンを思い起こす人が多い。
その後も数多くのパフォーマーによって歌われている名作だ。ナンシー・シナトラ、竹内まりや、上々颱風などそれぞれのアレンジで歌っている。
さて、その歌詞の和訳には、苦労するフアンがたくさんいて、楽しい光景のひとつだ。なんと上々颱風バージョンでは「♪ 不思議な言葉 レット・イット・ビー・ミ一 ♪>と歌いきっている。歌の心をつかんで見事と感動してしまった。
ファンが悩むのも無理がない。♪ LET IT BE ME ♪には、いくつも意味が込められているようだ。さらにパフォーマーによって、その意味が微妙に違って聞こえるというスケールの大きな曲になっているようだ。
その点でもまことにすごいというか「私のまま」に歌わせてという「願い」が込められているようだ。
その世界的に知られた名曲をエルヴィスは、小細工せずに地響きするような見事な愛のロッカ・パラードに仕上げて、独自の世界観を聴かせてくれる。ライブ版しかリリースされていないがライブにふさわしい生命力溢れるものになっていて、エルヴィス・プレスリーその人の魂が聴こえてきて、うれしくなる。これがエルヴィスだ。
歌うこと、歌声にできることに生涯をかけた男の姿がある。エルヴィス・プレスリーは間違いなく社会を変えた。それを体験したのが「エルヴィス以前にはなにもなかった」と語ったジョン・レノンであり、ポール・マッカートニー、キース・リチャーズ、ミック・ジャガー、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーンたちで、音楽ができることを体験から学んだ彼らは、歌にできることに自分を賭けた。
一方、エルヴィスは体現者であり、先駆者たったが、恐ろしいほどの批判を一手に引き受けた記憶はあっても、社会を変えた体験の記憶はなさそうだ。エルヴィスの魂には、音楽は自分を癒し、他者を慰める愛そのものだった。「僕にその役をさせて」とエルヴィスは、傷つきながらも渾身の力で歌い駆け抜けた。
I bless the day I found you ありがとう、エルヴィス。
LET IT BE ELVIS
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